TANGO CELLAR|かや山の家

TANGO CELLAR|かや山の家

1月に開催された、初めての Trace the Tango

 

https://atariya.kyoto/news/ttt_uastool/

 

1回目は「UA Stool をたどる旅」で、その時にランチをいただいたのが、かや山の家という施設にあるヤマノウエ食堂。

 

 

眼下に広がる棚田で採れたお米をはじめ、地元の食材がふんだんに使われた料理の数々は、丁寧に作られていてかなり高い満足度。

そして提供されるジビエは、店主自らが捌いて加工したものです。

遠方からも、わざわざ足を運んで来られるお客様もいらっしゃる人気の場所になっています。

 

 

大江山の中腹に佇む建物は、もとは少年自然の家だったもの。棚田越しに与謝野の町が一望できる絶好の立地にあります。施設は宿泊がメインですが、いくつかのプログラムも用意されていて、束の間の里山体験ができる場所。

 

 

そのかや山の家を運営されているのが、青木博さんです。

元々この場所からほど近くで生まれ育ちましたが、18歳で大阪に。

特に明確な目的があったわけではなかったそうなのですが、子どもの頃から料理が好きだったこともあって、ごく自然に進んだのが飲食業の道。

そこから12年ほどの間に、最初の6年は厨房、後半の6年は主にサービス。その間にソムリエの資格も取得するなど、マルチな経歴を積んできました。

仕事が一段落したのと、ちょうどその頃にお子さまが生まれるというタイミングで、生まれ育った与謝野町へUターン。

そこから程なくして、かや山の家の運営に携わるようになったそうです。

 

 

この施設は、15年ほど前に府から与謝野町に譲渡され、地元地域が委員会を結成して運営していました。

ただ利用者が減少し、一方で建物の老朽化が進んでいたことで運営が厳しくなったこともあって、地元の委員会が手を引くことになります。

その時に、やはりどうしても施設を残したいと願う人たちが中心になって、(株)かや山の家運営委員会を設立。法人化して改めてスタートが切られました。

その時から合流した青木さんが、施設の運営の中心を担うようになります。

それからは、利用者を増やすために様々なイベントや、施策を積極的に取り組んできたことが功を奏して状況は改善。

 

 

2021年には、与謝野町によって施設の大規模改修が行われてリニューアルオープン。その時に、ジビエの解体加工施設も作られて今に至ります。

大阪時代に勤めていた、フレンチやイタリアンで食材として取り扱っていたこともあり、元々狩猟やジビエには興味があったそうです。

いまは罠猟の免許も持っていますが、自身は猟師としてはあまり熱心ではないそうで、もっぱら他の猟師さんが獲った野生動物を加工するのが主。

与謝野町で50名ほどの猟師がいるそうで、この温江地区だけでも6名。そういうこともあって、素材には事欠かないそうで、冷凍庫には常に必要充分なストックが蓄えられているとのこと。

シカがそのほとんどですが、最近はクマが年に数頭獲れるそうで、その辺りに周辺の環境の変化の兆しが現れているのでしょうか?

 

 

青木さんの、かや山の家での仕事は、宿泊のお客様がいらっしゃるかどうか?で大きく変わってきます。

朝は早くから朝食の準備い取り掛かり、チェックアウトされてからは施設の掃除。ランチタイムの営業に、食材などの買い出し。次のお客さまのチェックインからは、夕食を提供して、夜は遅くまで片付けがあります。すぐ近くに住居はありますが、お客様がいらっしゃる時は基本的に施設に宿直。小さなお子さまとも離れ離れの生活です。

かつては利用者を増やすためにお客様を断ることはなかったために、そういう日々が続いたこともあったそうです。

しかしいまは、生活のリズムを取り戻すために、基本的に日曜と月曜は宿泊は取らずに、家族で過ごす時間を大切にしているのだとか。

これまでは、利用者を増やすためにがむしゃらに走ってきましたが、そのステージは一段落。

ある程度の認知度も上がったことで、イベントなどの企画を持ち込んでくるケースも増えてきたそうで、これからは施設をより使いやすくメンテナンスすることに注力して、この場所を自由に使っていただけるようにしていきたい、と。

 

 

最後にヤマノウエ食堂で使われている器について。

年季の入った陶器や漆器がうまく使われているのですが、その大半は元々地域の各家庭で使われていたもの。かつての料亭・當里家以外には、近隣に宴会場がなかったこともあり、冠婚葬祭は主に家や公民館で行われていたそうです。そのために各家庭には数十組の器があるのが当たり前だったとのこと。ちりめん産業が盛んだった頃の名残りだそうです。

近年の家の建て替えやリフォーム、あるいは蔵の掃除などで数々の器が出てくると、捨てるのはもったいない、と自然に青木さんに声が掛かるようになったのだとか。

 

 

実は表に出しているものは一部で、まだまだ多くの器があるそうで、中には見事な蒔絵が施されたようなものなども。それらを有効に活用する、特別な食事会などがそのうち開催されるかもしれません。

 

 

取材を終えて、この日のメニューからシカ肉の餃子をオーダーしました。

注文が入ってからひとつひとつ包んで、焼き上げた熱々のところをいただきました。

 

 

実は青木さんが大阪で、最初に働いたお店がヌーベルシノワのお店だったそうで、その腕前が発揮された一品でした。

 

ごちそうさまでした。

ブログに戻る
1 3
1 3